地元民へマンション民がクレーム

 少し前の話です。都内某所で、毎年恒例の御焚き上げ(小正月のと(ど)んど焼き)が突然中止になりました。当日になって、近くに新築されたマンションの住民からクレーム(煙)があったためです。
 煙がどうこうって、このクレーマーさんは冬なのに窓を開けっ放しにしてるんかいな?

 個人からのクレームなのかマンションの管理組合から(違うと思う)なのか不明ですが、すでに地域住民に案内をして、櫓(やぐら)を組み安全対策をして準備をしていたものを(点火を)取り止めの判断をしたということは、相当強い要請(煙の健康被害とか?)があったと推察できます。
 年に一度のほんの数時間だけであっても、自分の思想と違えば、許せない人がいますね。
 人が集まる集落どころか集合住宅であるマンションには絶対になじまない人種です。
 その新築マンションの中でも問題児扱いされているのではないかと。ww
 

 当日になってのことですので、妨害と言い換えてもよく、アイドルイベントに爆破予告をするような輩に共通している愉快犯に近いと思います。

 正月飾り等を燃やし穢れを祓うという意味がありますので、それらを持っていこうと準備していた人はモヤってしまいますね。 

 この地元の運営の方が作成されたと思われるお知らせには、腹立ち怒り、無念、いら立ちが滲み出ています。
 科学理論ではなく、地域社会の「とんど焼き」は熱い炎に顔をさらし「心の仕舞い、けじめ、仕切り」という心の整理をつける儀式だと思います。
 宗教とも哲学とも違う人間の心の奥深く感性の世界なので理屈も説明も必要ありません。
 昔から、日が暮れた時間でも若い男女が(公に)出会える機会を与えられていたので、これは行事が消滅しなかった理由の一つでしょう。夏祭りと同じです。

 子供の成長の過程では、自然のサイクルに基づく伝統行事を経験し、感性を育ててほしいものですが、それらの機会が奪われ、子供たちを学力試験だけで評価する(偏向)教育は残念です。

 私は稲わらや落ち葉焚きの匂いで、幼いころの記憶が呼び起こされます。
 年少期、成長期こそ自然の素晴らしさや怖さを体験できる環境で、書物や音楽、芸術から刺激を受けて欲しいのですが、これらをスキップする教育では自国、他国文化の尊重、お互いの理解を深め合うことはできません。
 感性の貧しい偏ったオトナが、つまらぬ国に変えようとしているように見えます。

 「除夜の鐘 中止のお知しらせ」この文中「本年より中止」の赤い字が精いっぱいの抵抗でしょう。
 反論できない相手に対して、マウントをとるノイジーマイノリティーはどこにでもいます。
 感性に触れる機会がなく体だけオトナになってしまった人たちなので話は通じません。
 伝統行事は一度止めるとほぼ終了します。復活するには気力と体力の維持、後継者探し、時代に対応できる柔軟なアイデア、それらを裏付けるリサーチと予算の確保が困難です。

 地元民から見れば新参者のマンション住民は、地域になじもうとせず、町内の催事を軽んじ(ているように見える)、地元商店街にはお金を落とさずに・・・と、先入観でしょうが、実際はローン返済のため共働きで時間の余裕がないのと、夜間も開いている量販店で買い物をしているだけです。

とんど焼き(富松神社)

 マンション新築計画が持ち上がったときに見られる「地元民が代々作り上げてきた良好な環境を破壊するマンション建設に反対するぞ」運動です。
 地元民はすでにマンション民は敵と顕著な構図が出来上がっています。

 移民、難民を受け入れた欧州の民族対立は、宗教も絡んで解決の糸口さえ見つかりませんが、地元民とマンション民の考えの違い程度なら時間が解決しますので、ほおっておくのが良いでしょう。
 大森山王にドン・キホーテが開店するニュースに地元民は、都内屈指の高級住宅街である山王にDQNのような客層は馴染まないぞ、街の風紀が乱れるぞ、などと開店に反対していましたが、近くの高級スーパーの閉店もあり、今では日常生活では安売り販売に地元民にとっては無くてはならない存在になっています。

 尚、京の都では応仁の乱の頃(室町時代)より前に居を構えている人が京の地元民であり、戦後どころか幕末の頃から住んでいる程度ではまだまだ仲間に入れてくれない。らしいwww
松尾好朗

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