黒船へ届く女流画家からの発信

 

リラ・キャボット・ペリー 
【着物を着る子ども 】 1898

 アリスと呼ばれるこの少女は、敗戦国日本の、重要な制度が窮地に陥った時、彼女の存在が強く影響を与えることになります。
 このアリスを描いたのは、母親のリラ・キャボット・ペリー(米国印象派の女流画家1843-1933)です。
 リラの夫、トーマス・ペリーはベンジャミン・フランクリンを直系に持つ名家で、彼が慶応義塾大学の教授に招かれた(1898・M31年)のを機に、アリスたち一家は3年間を日本で過ごします。
 画家としてのリラが、三人の娘と女中(ツネさん)を連れて郊外に写生に出かけると、いつも見学に大勢が集まっていたそうです。

 外国の女の子たちが遊ぶ様子は華やかで、婦人が油絵を描く姿は珍しかったのでしょう。そして、リラの筆運びは速かったので、見ていても飽きることはなかったと思います。 

 アリスは後に、外交官のジョセフ・クラーク・グルーと結婚、駐日大使(1931・S6年)として赴任、日米開戦までの10年間を再び日本で過ごすことになります。
 夫のグルーが赴任を決めたのは、日本びいきのアリスの勧めがあったことでしょう。
 30年ぶりの日本で、アリスは女中のツネさんと涙の再開をはたしています。
 アリスは日本の皇室もよく理解し、親交を重ねました。 

リラ・キャボット・ペリー「三重奏」1898-01
麻布の家にて・ピアノを弾いているのが3女のアリスです。

リラ・キャボット・ペリー 『The portrait of Mrs. Joseph
Clark Grew (ジョセフ・クラーク・グルー夫人の像)』=結婚したアリスです。1904年セントルイス万博出展

 アリスとグルーは、政界、財界の社交界の中でも樺山愛輔(あいすけ)と親交を深めます。
 愛輔の長女の正子は、アリスの娘エルシーと仲が良く、大使館に終日入り浸っていたようです。
 愛輔の父、樺山資紀は薩摩藩士で幕末の黒船来航などに刺激され、明治期には海軍大臣、海軍大将など歴任します。
 アリスの父親、トーマス・ペリーの大叔父が、その黒船を率いて浦賀に来航(1853年)し鎖国をこじ開け、日本を近代化へと向かわせたマシュー・ペリー提督です。

 愛輔はペリーが来航してちょうど100年後の1953年(S28)に亡くなっています。
 アリスの娘エルシーの親友である正子は白洲次郎と結婚、白洲正子(随筆家)となります。

 白洲次郎は吉田茂に見込まれ、米国との戦後処理の折衝の矢面に立たされますが、凛としてひるまず、格調高いケンブリッジ仕込みの流ちょうな英語でGHQと渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と米国側に言わしめたことは有名ですね。
 米国では、戦後の日本の天皇制度を廃止する方向で進められていましたが、アリスの夫で元駐日大使のグルーが中心になってそれを一転させ、天皇制度を存続させたのです。

Lilla_Cabot_Perry_-_Japanese-Children

 ここでは、日本の皇室と深い親交を重ねていた妻のアリスの強力な助言、娘エルシーの親友の白洲正子と、夫の白洲次郎がその立場から行動したのは間違いありません。

 

リラ・キャボット・ペリー 【岩渕の運河からの富士山】 1898-1901

 以前、私の設計事務所勤務時代に、樺山愛輔氏の孫にあたる方のホテル開業計画があり、私がインテリアデザインの担当をさせていただきました。
 彼はスマートな紳士そのもので、細かい注文や修正は一切なく、こちら側のミスも笑顔で流していただき、薩摩武士の片鱗を見た気がしました。

 リラの風景画は印象派の技法が見られますが、人物画は表情もコスチュームもあまり省略せず、アカデミー出身のようなところがありますね。

 黒船来航に始まり戦後処理まで、一人の女流画家が発したエネルギーが、時間を超え、その時代を懸命に生きた人々を、時には絡まりながら歴史を繋いだことは事実です。
 そして私のような末端にまで、その発したエネルギーが微かに届いたかのような神秘性までも感じてしまうのです。
松尾

 

 

駅チカのマンションの運命

 Aマンションを含めた駅周辺の市街地再開発が計画されています。
 3~4年後にはマンションを明け渡して建物を解体、そこに新築のタワーマンションに7~8年後に戻ってくる(または他の選択)というスケジュールが進行しています。
 今年度中に都市計画決定、権利変換のモデルが示されると、いよいよ計画の現実味が帯びてきます。
 Aマンションは築40年、耐震改修の検討(前面道路は緊急輸送道路指定外)及び、第3回目の大規模修繕の検討時期ですので、この市街地再開発計画がなければ、独自で大規模修繕計画を練っていた頃だと思います。


ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピアノを弾く少女たち(ピアノに寄る娘たち)1892年

オルセー美術館
オランジュリー美術館
メトロポリタン美術館

 外部から窺うと、新築マンションに戻って来られること、明け渡し後の仮住まいと引越し等の経費は一定金額まで自己負担がないこと、階数や広さは自由に選択できないもののタワーマンションに居住(を所有)できることなど、良いこと尽くめのように見えてしまいます。
 しかし、当事者たちは準備組合から報告されるスケジュールがすでに遅れがちであること、(戻ってくる場合)7~8年後さらに遅れた場合の自分の年齢や家族の状況、権利変換の結果(部屋の広さ等)の財産価値、希望の広さを求める場合の上積金額、竣工・入居時の経済状況、個人も地域全体も漠とした不安が大きくなりつつあるのも否定できません。

『田舎のダンス』
1883 アリーヌ
『都会のダンス』
1883 シュザンヌ

 私は、Aマンション築年数を考えるとこの計画は大歓迎しています。
 単に建物の補修だけではなく居住性を高めるための設備の導入や、時代に合った資産価値の向上を含め、建物を健全に維持するためには修繕費用が今後さらに必要になります。
 何よりも、築年数を重ねると建替えの検討を始めなければなりません。

 Aマンション単独での建替え、容積率の緩和がない現行法(つまり売却できる増床面積が確保できない。)では事業にならず、敷地の売却費用を建物の解体費に充て終了となってしまいます。
 自主管理のAマンションはマンション管理士(私)がアドバイザーの立場で管理組合をお手伝いさせていただいてます。
 この市街地再開発計画の続報を期待してください。

ルノワール【ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル】 
ルノワール【ピアノを弾く二人の少女】ネブラスカジェスリン美術館
ルノワール『カテュール・マンデスの娘たち』

 文章の途中にピエール・オーギュスト・ルノワール Pierre-Augustê Renoir(1841-1919)の絵を貼り付けています。
 印象派の大御所ですが、画家としての不遇な時代も長く、普仏戦争にも召集されています。  
 1892年ピアノ3作は晩年の彼の最も充実した時代の作品です。

 オルセー美術館の1点は、政府御買上作品になっていますが、緑系のバック(カーテン)に補色の赤(オレンジ)のドレスの少女を立たせ、その手前の色はもう白(ドレス)しかありませんが、締めるためにウエストに青いベルトを巻いています。ベルトの対角に青の花瓶もしっかり描き、顔色の良い健康的で跳ねるような子供を2人配置し、豊かな上流社会の風景を描いています。貧しくても、ひととき辛いことを忘れてしまいそうな絵に仕上がっています。
 3作の他にもピアノを描いた作品を残しています。労働階級に生まれた彼が、当時上流社会の象徴であったピアノに強く固執していたのかもしれないですね。

 最後にモーリス・ユトリロの作品を1枚貼り付けます。

モーリス・ユトリロ《サン・リュスティック通り、モンマルトル、雪》1940年

 パリをよく知っている人はおなじみで嬉しくなる風景ですね、モンマルトル界隈の画家が地方出身が多い中、ユトリロは生粋のパリっ子です。アル中療養のために始めた油絵ですが、哀愁を感じるパリらしい風景を多く残しています。

 上のダンス2部作の内、「田舎のダンス」の女性アリーヌさんは、後にルノワールの奥さんになる女性で、ふっくら健康的でルノワールの好みだったのでしょう。
 「都会のダンス」の女性シュザンヌさんはルノワールの元カノで、このモンマルトルの街を描いたユトリロの母親です。 

 シュザンヌさんは女流画家であり、奔放な女性でルノワールの他にもロートレックやドガのモデルをしていた上に交際もしていましたので、ユトリロの父親が誰なのか分かりません。
 シュザンヌさんは、ようやく息子のユトリロが画家として成功し、その稼いだお金を若い男に貢いで逃げられています。
 恋多き女性ですね。
松尾好朗
 
 
 
 
 
 
 



排水桝の水、ぜんぶ抜く

 国道に面したAマンション、歩道との境界には雨水を集める排水溝がありグレーチング(格子)で塞がれています。流れ込んだ雨水は排水桝に溜まり、排水本管へ合流します。
 排水桝の蓋を開けてみたところ、国道を行き来する車の排気ガスの煤煙(スス)のせいか堆積したヘドロの色は真っ黒です。

 昔の話、朝早くから住民総出の「ドブさらい」がちょっとしたイベントでした。ザリガニや水生昆虫のタイコウチがいたことをあのドブ臭さと共に思い出されます。さらった泥は肥料に使っていました。
 近くのドブ川ではこれを職業にしている人がいてガタロと呼んでいました。漢字だと「河太郎・潟郎」でしょうか?

ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー
「鍛冶屋の店先」1807年

 昨年、目黒川に浮かぶ花筏(桜の花びら)を河口で回収する船を見かけたのを思い出しました。東京都建設局河川から「目黒川水面等清掃委託」されている民間業者ですが、少し雅なガタロに見えました。(笑)

「カルタゴを建設するディド」 1815
ウィリアム・ターナー
『霜の朝』 1813年 ィリアムターナー

 さて、そのマンション排水桝のヘドロをさらってみると、上層には驚く量のタバコのフィルター部分(プラスチック=セルロースアセテート)が、その下のヘドロの層には意外にも人の髪の毛が目立ちました。
 そのほか、わざわざグレーチング(蓋)を開けて捨てたのか、コンビニ弁当容器、ストロー、コーヒーカップやペットボトルの蓋、レジ袋のようなものが見つかりました。
 枯葉が多いだろうと思っていましたがほとんど形をとどめていません。

 小金属と毛髪以外の、形状をとどめている物の全てがプラスチック類でした。
 分解するのが遅いプラスチックごみの深刻さを見せつけられた気がします。
 
 AIロボットが作成したデジタルアート作品が7,500万円と、高額落札されたというニュースが流れていました。
 これは、7,500万円の値が付いたという実績作りのため、「購入者未発表」様が超高額で落札しましたよと、マスコミに話題を提供しておくだけで、騒いで世界中に宣伝してくれるので、第2作目からは1作目と近い落札額が期待できるという画商が用いる古典的な素人相手の手法です。

1835-40 ノラム城 日の出
ウィリアム・ターナー
Approach to Venice 1843
ウィリアム・ターナー 
   

 それでも、価値があると認めた人が個人で購入するのは自由ですが、日本の美術館等は、海外の画商にとってはありがたいお客様で、実際、駄作を買わされたなと思えることが地方の美術館などで見かけます。しかし、地方美術館が様々な苦労を経て、購入するまでの経緯を評価に入れるならそれもありですね。 
 しかし、マスコミが騒ぐような怪しい話には乗せられないようにして欲しいものです。

 仏伊西蘭に比べ有名画家が少ないのが英独です。
 本日は、イギリスのロマン主義のジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)の水彩・油彩画を貼り付けました。
 彼は伝統的な手法で風景画を描いていましたが、晩年は異常なほど色と光にこだわり、形は抽象的(というか正体不明)なものに変化し、色と形の調和という基本から大きく脱した画風が「ターナーみたい」という代名詞にもなり、名を残しました。現在もイギリス国民から愛されています。
 日本のポスターカラーといえば、ターナー色彩株式会社の製品が長くトップシェアを誇ります。
 ターナーの画法は色を塗った後の擦り掠りが多いので、印刷で見るより立体的です。デジタルアートからは、遠いところに位置する絵画です。 
松尾