アリスと呼ばれるこの少女は、敗戦国日本の、重要な制度が窮地に陥った時、彼女の存在が強く影響を与えることになります。
このアリスを描いたのは、母親のリラ・キャボット・ペリー(米国印象派の女流画家1843-1933)です。
リラの夫、トーマス・ペリーはベンジャミン・フランクリンを直系に持つ名家で、彼が慶応義塾大学の教授に招かれた(1898・M31年)のを機に、アリスたち一家は3年間を日本で過ごします。
画家としてのリラが、三人の娘と女中(ツネさん)を連れて郊外に写生に出かけると、いつも見学に大勢が集まっていたそうです。
外国の女の子たちが遊ぶ様子は華やかで、婦人が油絵を描く姿は珍しかったのでしょう。そして、リラの筆運びは速かったので、見ていても飽きることはなかったと思います。
アリスは後に、外交官のジョセフ・クラーク・グルーと結婚、駐日大使(1931・S6年)として赴任、日米開戦までの10年間を再び日本で過ごすことになります。
夫のグルーが赴任を決めたのは、日本びいきのアリスの勧めがあったことでしょう。
30年ぶりの日本で、アリスは女中のツネさんと涙の再開をはたしています。
アリスは日本の皇室もよく理解し、親交を重ねました。
愛輔はペリーが来航してちょうど100年後の1953年(S28)に亡くなっています。
アリスの娘エルシーの親友である正子は白洲次郎と結婚、白洲正子(随筆家)となります。
白洲次郎は吉田茂に見込まれ、米国との戦後処理の折衝の矢面に立たされますが、凛としてひるまず、格調高いケンブリッジ仕込みの流ちょうな英語でGHQと渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と米国側に言わしめたことは有名ですね。
米国では、戦後の日本の天皇制度を廃止する方向で進められていましたが、アリスの夫で元駐日大使のグルーが中心になってそれを一転させ、天皇制度を存続させたのです。
ここでは、日本の皇室と深い親交を重ねていた妻のアリスの強力な助言、娘エルシーの親友の白洲正子と、夫の白洲次郎がその立場から行動したのは間違いありません。
以前、私の設計事務所勤務時代に、樺山愛輔氏の孫にあたる方のホテル開業計画があり、私がインテリアデザインの担当をさせていただきました。
彼はスマートな紳士そのもので、細かい注文や修正は一切なく、こちら側のミスも笑顔で流していただき、薩摩武士の片鱗を見た気がしました。
リラの風景画は印象派の技法が見られますが、人物画は表情もコスチュームもあまり省略せず、アカデミー出身のようなところがありますね。
黒船来航に始まり戦後処理まで、一人の女流画家が発したエネルギーが、時間を超え、その時代を懸命に生きた人々を、時には絡まりながら歴史を繋いだことは事実です。
そして私のような末端にまで、その発したエネルギーが微かに届いたかのような神秘性までも感じてしまうのです。
松尾