稚拙美

 都内Aマンションのエントランス、ドアの引手を握ったところ違和感というか痛みを感じました。
 公共性のある場所では、握りやすい丸パイプ等の握りバーが一般的ですが、Aマンションのものは特注のようで、バーが細く断面は正方形で角の面取りが少なく、バー上下の切り口は鋭角に尖っていました。
 バーの下端が幼児の顔や頭の高さなので、風の強い日はドアごとあおられて、角に強く当たれば骨まで突き刺さることもあるかもしれません。
 ここはデザイナーズマンションといって売り出されました。
 販売会社にとって良いデザインのマンションとは、他より高く売れることだけで、他との差別化という言葉を自分勝手に解釈しているようです。
 このドア引手のように、わざわざ「デザインしたんだぞ」と言いたいがために安全性を軽視した幼稚なデザインをされては、ウン千万を払う購入者はたまったものではありません。

アンリ・ルソー 「子供の肖像」1908年

 なんともインパクトの強い肖像画ですね、一生懸命な想いが未熟さを軽く凌駕しています。この稚拙な美しさは、あまたの美人画を価値のないものしてしまいます。
 モデルの子がこの絵を見て喜んだかどうかの記録は残っていません。(笑)
 以前の「不協和音」の投稿にもアンリ・ルソーが登場しています。表題の「稚拙美」とは技術的には拙く未熟でも、素朴さ純粋さ素直さが、かえって強く感じられる美をいい、幼稚とは違います。

 スペインの教会の彫刻を神への一途な想いで修復したものの、技術が伴わなかったため残念な結果になったというニュースがありましたが、想いだけでは稚拙美にはなれなかったようです。以前の似たケースが次の2点、各左がオリジナルです。ちょっと笑えます。

「Ecce Homo(この人を見よ)」という題の19世紀の壁画

バルトロメ・エステバン・ムリーリョの作品の複製画

 中国では清朝の絵画を修復したところ、どう見ても別人の作品になったことがありましたが、現地では良くなったと、我々とは違った評価がされています。

 多くの漢字を意味のない記号に変えてしまっても平気な(新しい価値観の?)文化を持つ国ですから、修復の意味を理解するのは難しいです。

 他国の悪口と一緒に世界中にバラまいている「平和の少女像」なるものがありますが、彫刻(芸術)作品としては二流にも届きません。

清王朝時代の壁画(上がオリジナル)

 敵を殺してなんぼの時代のことを、現代の基準で謝罪と賠償を語ること自体かみ合うわけがありませんが、もしこの像を一流作家が手掛けていたら、世界中の人の心を動かし、日本人の受け止め方も少しだけ違っていたかもしれません。 
 この像は初期の単体からベンチになり、今は椅子が二つあり空けた一つは、未解決のまま亡くなった戦争犠牲者と痛みを分け合う場という理由を後付けしています。像の隣に座っての記念撮影は、観光地にある顔出し看板となんら変わらないレベルです。
 正義連は潤沢な資金をケチらずに、もし一流の彫刻家に依頼していれば、正義連ならぬ実はイカサマ連だったことも未だバレていないかもしれませんね。
松尾